旅行・地域

2009年6月11日 (木)

#萩の松下村塾と秋芳洞


昨日は夕食後、このホテル萩本陣の敷地内にある、1両の定数9名で2両編成のミニモノレールで、高さ150メートルの山上の展望台まで乗車してみました。
展望台からの夜景は、想像以上に素晴らしく、市内のともし火や海上のいさり火などが、闇の中に輝いていました。

(写真説明1・ 玄関上に ホテル萩本陣とかかれてある看板 )

今日は車でホテルを出ると、すぐに松陰神社に着きました。
この敷地内には、吉田松陰が関わった松下村塾と、松陰の住んだ母屋が史跡として残されています。

(写真説明2・ 史跡 松下村塾と書かれた石碑と案内板 )

松下村塾の内部は、部屋が三室ほどと、十畳ほどの和室の講義室に、掛け塾のそばに松陰が座っている像があります。

(写真説明3・ 庭から見た講義室で、室内の右手に 松陰の像が短ざし 掛け塾がかかっています。 )

この松下村塾は、江戸時代後期の幕末に、長州藩士であり思想家で教育者の吉田松陰が、講義した私塾です。
松陰が安政の大獄で粛清されたため、わずか3年で廃止されてしまいました。

(写真説明4・ 玄関と講義室の見える 松下村塾の全景 )

(写真説明5・ 玄関より見た 松下村塾の室内 )

この松下村塾は、武士や町民、農民など身分の隔てなく受け入れたのが特徴であり、塾生には高杉晋作、伊藤博文、山形有朋など、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出しました。
また、隣には、割りに大きな平屋の吉田松陰の旧宅が建っていました。

(写真説明6・ 正面より見た松陰の母屋 )

この松陰神社は、松陰を祭神とした学問の神社で神殿に参拝しました。

(写真説明7・ 鳥居に注連縄と 日の丸の提灯の飾られた松陰神社 )

次に、萩の名所の堀内地区の鍵曲がりを見に行きました。
ここは古いシックイノ塀と門を備えた閑静な屋敷街です。狭い道路が鍵の手のように直角に曲がり、戦時には見通しが悪いため、敵の侵入を防ぐように作られた道で、重臣の屋敷を守り、城下町としての特有な防衛のための街づくりとなっています。

(写真説明8・ 古いシックイの塀と土の塀が続く 屋敷町にある かぎ曲がりの道 )
 
夏ミカンの木が、どこの家の庭先にも目に付く萩の市内を後にして、山越えの道を走り、最後の観光地 広々とした草原の秋芳台に到着しました。

(写真説明9・ 緑の草原に白い石灰岩が点在しており 羊の群れのように見える秋芳台 )

この秋芳台は、はるか昔、海でサンゴ礁として誕生しました。そしてドリーネや鍾乳洞が発達した石灰岩の台地でできたカルスト台地となり、天然記念物として保護されています。
展望台などからの眺望は広々とした草原の中に、白い石灰岩が点在しているので、丁度草原に放牧された羊が群れているように見えます。

(写真説明10・ 秋芳台の石灰石のアップ画像 )

いよいよ秋芳洞の入り口からエレベータで80メートル下ると、地下には何と広い空間があるのには感嘆しました。
気温17度で薄暗く湿ったコースをたどって行くと、ザアザアと谷川の流れのような音が聞こえてきます。

(写真説明11・ 自然の力で作られた 天井から床までの茶色の円筒形の大黒柱 )

やがて音声ガイドの声が聞こえ、この地点は洞内で一番広く、千畳敷と呼ばれている所だそうです。そしてここは、幅150メートル・長さ200メートル・天井は厚さ100メートルの石灰岩で覆われており、丁度広いドームの中にいるような感じです。
更に下ってゆくと、水に溶けた石灰分が沈積して皿のようになった 百枚皿・幾段にも分かれて落ちる滝が石化した から滝・山里の棚田のような小さな皿が重なっている 千町田・黄色の岩が幾重にも縦に束ねられたように見える 黄金柱などの自然岩の造形を鑑賞することができました。

(写真説明12・ 蘇鉄岩は岩壁から幅2メートルほどの円形にせり出してきた茶色の岩)

(写真説明13・ ちまちだという名称の岩で文中で説明済みです )

(写真説明14・ 黄金柱という名称の岩で本文中で説明済みです。 )

再びエレベーターで明るい地上にでて、新山口駅より15時06分発の新幹線の望みに乗り込み、山陰の旅を締めくくりました。

2009年6月 5日 (金)

世界遺産の石見銀山と津和野の観光


昨夜 宿泊した温泉津温泉は、重要伝統的建造物保存地域となっています。
狭い道に木造の2~3階建ての民家と、旅館が混在しており、旅館というより「はたご」といった方が、ふさわしい静かで落ち着いた街並でした。
また、かってここは石見銀山の積出港でもあったとのことです。
温泉津温泉を後にして、車で石見銀山の観光案内所へ向かいました。
ここで町内の車の通行許可証をもらい、一般車両禁止の民家の点在する谷間の町をしばらく行くと、落石工事のために通行止めとなってしまいました。
車を降りて、静かな山間の道を古い屋敷跡を見て登ると、龍源寺間歩につきました。

(写真説明1・ 坑道入り口に 史跡石見銀山 遺跡 龍源寺間歩と彫られてある石碑 )

坑道入り口で、係りの方から銀山の説明を聞くことが出来ました。この間歩(まぶ)とは坑道のことだそうです。

(写真説明2・ 入り口にある 龍源寺間歩の 坑道案内図と 説明文 )

この銀山は鎌倉時代末期に大内氏により発見され、本格的採掘は大永6年神屋寿禎によりはじめられました。そして16~17世紀には、シルバーラッシュとして、最盛期を迎えましたが、昭和18年(1943年)の閉山まで、228年にわたり銀の採掘が行われま
した。

(写真説明3・ 重さ8キロの この鉱石に 銀はどの程度含まれているのでしょうか )

石見銀山の特徴は、自然を破壊することなく環境に配慮して自然環境と共存した産業遺跡として認められ、平成19年7月に世界遺産に登録されました。
坑道に足を踏み入れると、この龍源寺間歩は江戸時代に掘られたもので、坑道の156メートルを公開しており、高さは1.6から2.1メートルで、幅は0.9から1.5メートルありました。坑道内部は当時のままであり、岩をノミで彫った跡を触れることが出来ました。

(写真説明4・ 坑道内は 立つていると 頭がつかえそうな高さで 岩もごつごつ )

また、左右には20以上の試掘跡や鉱脈に沿って掘り進んだ横穴があります。
この横穴の大きさは約高さ90センチ・幅80センチほどで、腰にござを敷いて尻をついて入り、何とかイザッテ進むことが出来そうですが、身体を動かすごとに腕や頭が岩に触れて、身動きもままならない状態のように思われます。
この狭い空間で、ノミをふるって岩を削って行くのは至難の業だと感じました。
この石見銀山は、風光明媚など観光目的にはふさわしくありませんが、歴史に関心のある人には興味ある世界遺産だと思います。

次には車で津和野の観光に向かいました。
津和野市内に入ると、観光客がたむろしている殿町通りの掘割を覗くと、何と色とりどりの大きな鯉が沢山泳いでいます。鯉は人の声や音に反応して近寄ってきます。

(写真説明5・ 津和野名所の なまこ塀と 掘割に泳ぐ色とりどりの 大きな鯉 )

この2メートル幅ほどの掘割の近くには、大小の武家屋敷跡の門が残されています。
一番大きくどっしりと立派な門と土塀は、津和野藩 筆頭家老の多胡家の表門跡ですが、何と門の後ろには建物はなく道路になっています。

(写真説明6・ 津和野家老の多胡家の 表門 )

2番目に大きな門は、やはり家老の大岡家の表門で、敷地内は町役場になっているようで
す。

(写真説明7・ 津和野家老 大岡家の 表門 )

3番目の表門には、2軒の表札があり個人宅のようでした。また、掘割の向こう側には、なまこ塀に囲まれた、カトリックの教会が立っています。

(写真説明8・ 掘割と なまこ塀に囲まれた 津和野のカトリック教会の全景 )

津和野駅前にくると、丁度山口線のSLが正に発車しようとしています。急いで土手に上り、間近に長く尾を引いた汽笛を聞き、5両ほどの客車を引いて力強く発車してゆく姿を見送ることが出来ました。

(写真説明9・ 黒煙をあげて 客車を引っ張る 山口線のSL )

更には市内の森鴎外が、幼少の時にすごしたという旧宅を見て、日本五大稲荷の一つ、太鼓谷稲成神社に参拝しました。

(写真説明10・ 津和野で 幼少時をすごした 前庭のある平屋建ての 森 おうがいの旧宅 )

(写真説明11・ 白壁に 朱塗りの柱の 太鼓谷いなり神社 )

そして車で萩まで行き、今日の宿であるホテル萩本陣に入りました。
ホテルでは多くの風呂を渡り歩いて、汗とともに旅の疲れも流し去ることが出来ました。


2009年6月 1日 (月)

出雲大社と日御碕神社


出雲市駅前よりレンタカーを借りて、市内の町並みを抜け、10分ほどで出雲大社の駐車場に付きました。
参道の両側には、ふた抱え・み抱えもありそうな巨大な松が並んでいました。また、左手には大国主命(おおくにぬしのみこと)とイナバノ白ウサギの像が立っています。

(写真説明1・ 立姿のダイコクさまが手を差し伸べて ウサギが前足を上げて応えている像 )

この大社は平成20年春に御神体を移して、国宝の本殿の改修工事が始まり、本殿には残念ながら高いクレーンが立ち、ほとんどシートに覆われていました。
現在の国宝の本殿は20m以上の高さで、延享元年(1744年)に造営されたものだそうです。そしてこの本伝は「大社造り」と呼ばれ、三重県 伊勢神宮の「神明造り」、大阪府 住吉大社の「住吉造り」とともに日本の三大神社建築様式と呼ばれています。
正面拝殿には長さ8メートル重さ1500キロの大注連縄が飾られています。

(写真説明2・ 小高い宇迦山を背景に大注連縄の飾られている拝殿の全景 )

この出雲大社の祭神は大国主命であり「ダイコクさま」として親しまれています。
大国主命は日本の国土の始まりである豊葦原の瑞穂の国の国造りをし、この瑞穂の国を天照大神に国譲りをしました。そして天照大神と同じ住居と同じ様に柱の木は太く長く、板は厚く広くして、この地に壮大な宮殿を建てたとのことです。そして大国主命をお祭りし
末永く守ることを約束したとのことでした。
次に、多くの小銭が埋め込まれている大注連縄の掲げられた神楽殿に参拝しましたが、この右手には大きな日の丸の国旗が掲揚されていました。

(写真説明3・ 大注連縄が飾られている 神楽殿の全景 )

日御碕へ向かう際に、出雲大社参道入り口の大鳥居に立ち寄りました。この鳥居は日本一大きなもので、高さは23メートル・柱の周囲6メートル・柱の直径は2メートル・出雲大社と書かれた額面は6畳ほどの大きさで、大正4年に建造されたものです。

(写真説明4・ 出雲大社と掲示されている参道入り口の日本一高い大鳥居 )

次に車で海岸沿いを15分ほど走ると、本殿を含め各建物の柱は朱塗りの日御碕(ひのみさき)神社につきました。
現在の社殿は、徳川三代将軍 家光の命により、幕府直轄事業として、江戸より大工を派遣して10年を費やして、寛永21年に竣工しました。

(写真説明5・ 林をバックに朱塗りの日御碕神社の本殿と両側にある トウロウ )

構造は初期の権現作りで、由緒ある社殿を含めて全ての建物が重要文化財になっています。
この神社を海岸沿いに下ると、賑やかなウミネコの声が聞こえ、このウミネコの生息地である天然記念物の経島(ふみしま)が、すぐ間近にあります。
この島は柱状節理の岩層であり、岩がお経本を重ねたように見えるのだそうです。

(写真説明6・ ウミネコの生息地で 手の届きそうな近さにある天然記念物の小さな経島 )

さらに岬の突端にある高さ42メートルの東洋一高い日御碕灯台を車窓より見て、出雲市内に戻りました。

(写真説明7・ 林の向こうに見える高さが東洋一といわれる日御碕灯台 )

更に車を走らせて新鮮な海の幸を期待しつつ、今日の宿である温泉津温泉に向かいました。

2009年5月28日 (木)

夜行寝台 サンライズ出雲の旅


東京駅22時発の夜行寝台 サンライズ瀬戸・出雲は、前7両が高松行きで、後ろ7両が出雲市行きの14両編成で、岡山駅までは併結運転となっていました。

(写真説明1・ 東京駅でのサンライズ エクスプレスと掲載されている サンライズ瀬戸・出雲のヘッドマーク )

(写真説明2・ 特急 サンライズ出雲と書かれている行き先表示 )

私の利用する個室は、最後部の2階建て車両の14号車で、車内の会談を5~6段下った一階の2号室でした。
車内の階段や廊下はともに狭く、すれ違うさいは体を斜めにするほどですし、天井までは180センチほどでしょうか、手を挙げると天井に触れてしまうほどの低さでした。

(写真説明3・ 2階建て車両の上下への階段と通路 )

(写真説明4・ 一人がようやく歩ける程度の こんなに狭い車内の通路 )

個室ドア横には、室内キーとしての4桁の暗証番号を押すパネルがあります。
個室のドアーを開けると、レールと同じ方向にベットがあり、枕と毛布そして浴衣があります。一方の壁からは小者を置くための棚がせり出しています。

(写真説明5・ ベットと寝具類のある 個室寝台車の模様 )

窓は大きく一階はホームの高さと同じなので、ブラインドをしないとホームからは個室内が丸見えの状態のようです。
室内の広さは、縦幅は2メートル弱・横幅1メートル弱、高さは180センチ程の空間です。またベットの広さは、縦2メートル弱、横幅は70センチほどでした

(写真説明6・ 個室のベットに座るとこんなに狭いですよ )

設備としてはFM放送・室内照明・空調などの他に、鏡・コンセント・スリッパなどがありました。また、10号車にシャワー室もあり、300円で利用できるようです。
発車後、すぐに10号車のミニサロンカーへいって見ると大賑わいでした。両側の窓に向かって、テーブルがあり、左右に8脚の椅子しかないので、互いに譲り合って座り飲み会の始まりです。
横浜を過ぎると、強い雨が降っており、熱海付近で早々に宴を切りあげて自室に戻りました。

(写真説明7・ ミニロビーカーでのささやかな宴 )

5時過ぎにガタン・ゴトンという鉄路の音でユリカゴから目覚め、そろそろ姫路駅かと車窓より見ていると、加古川駅を通過したとのこと。少し遅れているのかと思っていたら、6時に車内放送が開始され、「名古屋駅付近の踏み切りで信号故障のため30分の遅れ」
とのアナウンスがありました。
岡山駅でサンライズ瀬戸との切り離しがおこなわれ、朝の車内販売開始の放送があり、私たちは早く並んでいたため、サンドウイッチを人数分購入することができました。

(写真説明8・ 伯備線の車窓より見た 畑と民家 そしてホウキ ダイセン )

倉敷より単線の伯備線を利用し、中国山脈を横断して、米子駅より山陰本線に入りました。
そして松江を経て、宍道湖を右手に見ながら走り、始発の東京駅から950キロにおよぶ夜行寝台車 サンライズ出雲の旅も終わり、1時間8分の遅れながら終着駅の出雲市駅に滑り込みました。

(写真説明9・ 出雲大社の屋根を模した 出雲市駅の 正面入り口 )


2009年5月19日 (火)

皇居北の丸公園と昭和館


東京メトロの九段下駅から、エスカレータで地上に出ると、そこは靖国通りでした。
左にお堀を見ながら、靖国神社へ向かう有名な九段坂を登ると、すぐに皇居外苑 北の丸公園になります。

(写真説明1・ 自然石に北の丸公園と縦書きに彫ってある標識)

公演入り口には江戸城最古の建造物といわれる瓦屋根のどっしりした田安門があり、右手には立派な石垣が築かれています。

(写真説明・ 園内から見た 旧江戸城最古の建造物の 田安門)

また、左手には八角系をして屋根のてっぺんには、キューピーの頭のように尖った独特な構造をした武道館が建っています。何とこの「武道館」という文字は、右横書きで書かれていました。

(写真説明2・ 正面玄関の上に掲載されている右横書きに書かれた武道館の看板)

園内をしばらく行くと、芝生のある広場となり、ここを過ぎると池が現れます。
遠くからは車のエンジンなどの都会らしい喧騒が聞こえてくる中に、間近に小鳥達のサエズリが聞こえてきて、ホットいやされる感じでした。
公演を抜けると、4車線の道路の向かいに、警護の詰め所と警察官の立ち番をしている瓦葺の屋根をした立派な乾門(いぬいもん)が建っています。この門は皇族の通用門であり、時々黒塗りの車が出入りしていました。

(写真説明3・ 北の丸公園から見た 皇居 いぬい門の全景)

再び、公園内の林の道を散策すると、楠・山もみじ・コナラ・ヒイラギ・アジサイのような白い花のタマズミ・クろがねもち・ハナミズキなど、多種多様な樹木が新緑の森を作っています。また、所々には野鳥のための巣箱が設けられていました。 

(写真説明4・ 都心に在りながら 多種多様な樹木が うっそうと茂っている新緑の森)

この園内には、春日の局・千姫などの屋敷があったという由緒ある地だそうです。
更には、森の中に70年近く皇居を守護した近衛歩兵第2中隊の記念碑が在り、タチバナの樹と、正面には近衛連隊の星型の徽章が、小さな石に刻まれていました。
再び、田安門を通って九段坂を下って行くと、すぐに7階建ての昭和館があります。

(写真説明6・ お堀の正面に立つ 円筒形の昭和館と 日本式屋根の九段会館の全景)

この昭和間は、昭和10年代から30年代の戦中・戦後の国民の暮らしの模様を、当時使用していた生活用具などの実物を展示している資料館です。

(写真説明7・ 昭和館と 楕円形の自然石に彫られた標識)

館内では、展示の解説を聞くための音声ガイドの機器を借りて、各コーナーで、その部の解説を音声で聞くことができました。
7回には、戦中の資料が展示されており、出征兵士への祝い旗・千人針・戦地と家族の手紙類、生活用品としてのちゃぶ台・かまど・木製の冷蔵庫・蓄音機などが陳列されてります。また金属類は供出されたため、瀬戸のアイロン・ホークなどや、防空ズきん・防火用水などがありました。
6回には、戦後の資料として、天皇陛下の終戦時の玉音放送・当日の新聞・皇居前の写真などや、闇市・バラック小屋・働く母子の写真風景が掲示されています。さらに子供たちの遊びとして紙芝居・布製のグローブや、生活用品としてテレビ・ラジオ・電気冷蔵庫・洗濯機など、当時の思い出深い実物が配置されていました。
戦後の混乱期を子供ながらも、鮮明に記憶している私にとっては、今はいずれも思い出として残しておき、この世代を若い人に伝えてゆきたいと思いつつ館内を後にしました。

2009年5月 9日 (土)

安・近・楽な小江戸川越 菓子屋横丁の散策

5月のゴールデンウイークには、予定もなくブラブラしているさなかに、孫が遊びに来たので、外出しやすい陽気にも後押しされて、最も安く・近く・楽な川越散策に出かけてみました。
川越駅の観光案内所で、今日の催しを確認したところ、何も催しがないとのことでした。
それではと菓子屋横丁を目指すこととなり、川越駅より300円の市内乗り放題の一日フリーパスを購入して、バスに乗り込みました。
バスのアナウンスで、本日は休日のため11時から16時まで中町から札の辻までが、歩行者天国になるとの案内がありました。
バスを降りると、市内の大通りには、多くの観光客の列と車がつながっています。

(写真説明1・ 一番がいにある菓子屋横丁への道しるべ)

駄菓子屋横丁に入ると、路地は茶とネズミ色の幾何学模様をした石畳となっています。
午前にも関わらず、さすがはGW中で、多くの観光客でごった返しており、歩くのにもままならない状態です。何とその中を人力車がすり抜けて行くではありませんか。

(写真説明2・ 料理屋の前庭には多くの鯉が池で泳いでいます)

軒並みに民家を改造したと思われる店先には、昔の懐かしい駄菓子類が並んでいます。
駄菓子屋さんには、アンコ玉・変わり玉・芋ようかん・黒パン・カルメ焼き・オミくじ入りの煎餅・ラムネ菓子など、子供の頃に味わった、あの味が思い出されます。

(写真説明3・ 駄菓子屋の店先に並ぶシベリヤ・芋かりんとう・フ菓子・ポン菓子など)

中には十数種類の飴、コンペイトウ・チョコレート・ガム・氷砂糖などから、自分の好みの物をレンゲですくい、100グラム200円で買う楽しさなどもありました。
また、「タマリキ」という飴の専門店には、ベッコウ飴・コンペイトウ・芋飴、ショウガ飴・ニッキ飴・ハッカ飴・またどこを切っても同じの金太郎飴など懐かしい品があり、いずれも200円と手頃な値段がついていました。

(写真説明4・ 飴の専門店の「タマリキ」の店先風景)

そしておもちゃ屋さんの店内には、ベーゴマ・メンコ・ビー玉・おはじき・紙風船・凧・ダルマ落とし・ヨーヨー・ケンダマ・リリアン・ゴムのパチンコなどが棚にあり、あまりの懐かしさにつられて、子供の頃に得意だった木製のケンダマを購入しました。

(写真説明5・ 客の注文にお応じる露天の飴細工屋さん)

メインストリートの一番街は、歩行者天国となっており、観光客が車道一杯に広がって散策している中に、数台の川越の山車が道に飾られています。

(写真説明6・ 蔵造りの建物が並び観光客でにぎわうメインストリートの一番がい)

そんな人々のさざめきと、山車の上で演奏する笛・太鼓・鐘のお囃子が、わずかに聞こえてきます。そんな中、ゴーん・ゴーんという川越の名勝の「時の鐘」の音が頭上に意外と大きく響きわたってきました。

(写真説明7・ メインストリートに飾られている立ち姿で横笛を吹く牛わか丸の山車)

この一番街は、電柱も高層ビルもなく蔵造りの建物が目立ち、デトロ調でノスタルチッくな雰囲気を漂わせており、明らかに川越は観光都市へと変貌しているように思われます

(写真説明8・ 古い蔵作りの店が並ぶ一番がい)

帰りには熊野神社に立ち寄り、銭洗い弁天で、ヘソクリのお金を洗って、しっかりとご利益を期待しながら帰路につきました。●⑨銭洗い

(写真説明9・ 熊野神社の銭洗い弁天の池で、お金を洗う子供たち)

2009年4月29日 (水)

東松山市のボタン園を訪ねて

爽やかに晴れ渡った4月の一日、東松山のボタン園に出かけてみました。
坂戸市内の住宅街を過ぎると、車窓より澄み渡った青空に白い富士山が頂上までくっきりと見ることができました。
10時過ぎに目的地の東松山市のボタン園に到着しました。

(写真説明1・ ボタンらしさを強調した白い大輪の花です)

ここは緩やかな丘陵地帯で、周囲は概ね桜の木に囲まれています。面積は約3ヘクタールの起伏に富んだ園内には、よく手入れされた300種以上のボタンが、約5800本も栽培されており、今を盛りと見事に咲き誇っています。

(写真説明2・ ボタン園の全景で、手前より新芽の出たアジサイ・花の終わりの水仙・小川が横切り・つつじに囲まれたボタンの群落が広がっています)

下からボタン園を仰ぎ見ると、赤・薄紅・白など、色とりどりのボタンが暖かな陽光をいっぱいに浴びて咲き競っています。
入園すると、ウぐいすの声に迎えられましたが、このボタンの開花時期は有料で、入園料は500円です。

(写真説明3・ 赤・紫・濃淡のピンクなどに彩られて咲き誇るボタンの花々)

園内の遊歩道は舗装されていて、道路の両側には赤や白の花をつけたツツジが、垣根のように植わっています。その奥には、よく手入れされたボタンが、色鮮やかに咲いています。

(写真説明4・ 珍しい赤とピンクの縦縞に区切られた大輪のボタンです)

ボタンの原産地は中国だそうで、当初は薬用として根が利用されたようでしたが、後に多くの品種改良がされて、観賞用の園芸品種となってきたようです。
ボタンの木の高さは1~1.5メートルほどで、花の大きさは15~20センチ位でした
花の色も赤・赤紫・紫・ピンク・黄・白など豊富であり、花の形も一重・八重・千重、大輪・中輪などと多彩でした。

(写真説明5・ こぶりな真っ赤な花で、細長い葉が特徴のドラゴンという名前のボタンです)

花の種類によっては「七福神」、「ルりボん」、「ドラゴン」などと名称の書かれた名札がついていました。香りは青臭い感じで、あまりよくありませんでした。
暖かな日差しと、気持ちよい風に撫でられながら、ボタンの花にうずもれて約1時間ほど、のんびりとした散策を楽しむほとができました。

2009年2月15日 (日)

川越喜多院の節分豆まき式

2月3日は、小春日和というより、風もなく暖かで、春たけなわのような陽気に誘われて、川越の喜多院へ節分の豆まきに出かけて見ました。
喜多院正面の四脚の山門は国の重要文化財に指定されている建造物です。
この山門の切妻作りの屋根瓦には、○に二の家紋が入っています。屋根下には、表に竜と虎、裏には唐獅子が刻まれていました。
山門右には、県の指定文化財で窓に木製のコウシ窓のある番所が立っています。
山門をくぐり境内に入ると、焼きそば、焼酎、焼き鳥などの屋台村や、ダルマなどの多くの露天が軒を並べてにぎわっていました。
本堂の階段脇には、節分の豆まき式のための赤幕で覆われたヤグラガ設けられています。
やがて目の前を粋な木遣りの歌声とともに、マトイのサラッサラッという気持ち良い音が通り過ぎてゆきます。その後には、50名近くの裃を着けた年男が続きます。最後に大僧正に傘をささげた僧侶など、5~6名が続きました。
ヤグラの上に並んだ年男は、マスの中から福豆を参拝客に向けて投げると、完成とともに福を得るために、頭上に手を伸ばし、身体はぶっかりあっての騒動が繰り広げられました。最後には小さな縁起物のダルマも投げられにぎわいも最高潮となりました。
喜多院では、全て「福は内」で「鬼は外」とは唱えませんでした。
この豆まき式は、本堂で年男の開運厄除の護摩祈願を行います。
そしてお大師様に変わって年男が参詣している人々に、お大師様の福・功徳を豆という形に変えてお分けする行事だそうです。そして一年間の家内安全などを願うものです。
私達は、ビニール袋に約20粒ほど入った福豆を、4袋を確保することができました。
今年も我が家では、ぜひ一年間の家内安全であるように願いたいものです。

2008年11月30日 (日)

第5回小江戸川越素人チンドンフェスティバル


11月22日午後から、川越新富町商工会の主催で、第5回小江戸川越素人チンドンフェスティバルが、新富町界隈で繰り広げられました。

(写真説明1・ ステージ上で演奏するチンドンバンド)

東京からは、大田区の「みどり屋」というプロのチンドン屋さんをはじめ、函館の「大黒笑事」・富山からの「まいどはや」・群馬県の前橋や高崎・小諸や大槻などの遠方からも参加していました。

(写真説明2・ 子供を交えて客席とステージからアピールするチンドン一座)

また、近隣では、ふじみ野市・寄居・ときかわ、そして坂戸からのチンドンれんげ座が競演しています。更には、何と早稲田チンドン研究会という学生グループのアマチュアなど、13チームのチンドングループが出演していました。

写真説明3・ ステージの後ろから見たチンドンの熱演と熱心に見る観客)

メイン会場のフレアパークでは、参加一座の紹介と、それぞれの一座のPR、そして鐘、太鼓、サックスなどの哀愁を帯びた音色の中にも、賑やかでしかも華やかな演奏を披露していました。

(写真説明4・ 私と頬紅をつけておどけた表情のチンドンれんげ座の座長)

特に坂戸から参加のれんげ座の座長や、口上者は顔なじみのため、親近感を持って楽しく聞くことができました。

(写真説明5・ ノボリを先頭に街内を練り歩くれんげ座の一団)

次に、それぞれのチンドン一座は、商店街のパレードへと移ってゆきました。
れんげ座について移動して見ましたが、口上者はノボリを持ち背には店名の入った看板を背負い、7名ほどの一座を引き連れて練り歩いていました。
衣装は時代劇風で派手な着物を着ており、頭にはチョンマゲのカツラをかぶり、顔には白くお白粉を塗り、派手派手の頬紅をつけています。


(写真説明6・ 街内練り歩きも良いが、疲れたなあとばかり、しゃがみこむ一座の子供)

中でも5歳くらいの男の子が、着物に尻ぱしょいをし、腰には刀を差して列についているのが印象的でした。

(写真説明7・ 店先で宣伝の口上をのべるチンドンすたっふ)

主要な店先では、チンドン独特の宣伝口上で道行く人々に呼びかけていました。

(写真説明8・ 後姿にも華やかにして、活気あふれるチンドン一座)

昔は商店の開店や、大売出しのさいに、チンドン屋さんが出て、いつまでもその後についていってしまい、母に怒られた、あの子供の頃の思い出が蘇ってきました。
最近のチンドンには、昔のように三味線や、哀調を帯びた音色のクラリネットがないのが、少し寂しいかなぁという感じがしました。


2008年9月26日 (金)

巾着田の彼岸花 「赤い花ならマンジュシャゲ・・・」

9月18日に、アイネットサロンの行事として、彼岸花、別名曼珠沙華(マンジュシャゲ)で有名な、日高市の巾着田(きんちゃくだ)へ見物に行く予定でした。しかし当日は生憎の雨で残念ながら中止となってしまいました。
その後、私はお彼岸の墓参りの後に、彼岸花の見頃となった巾着田に、改めて立ち寄る事ができました。
この巾着田は、高麗川の流れが蛇行してできた水田跡です。私も登ッたことのある近くの日和田山などから見ると、川の流れが丁度、巾着の形のようにみえるので、この名がついたようです。
駐車場に車を入れて見ると、林の中には真っ赤に染まったジュウタンのように、彼岸花(別名 マンジュシャゲ)が群生して咲いていました。

(写真説明 木洩れ日の中に、ただ1本、真っ赤に咲き誇っている彼岸花)
一人200円の入園料を払い、園内の遊歩道をたどると、左右は背丈が40~50㎝ほどに伸びた彼岸花が満開に咲き誇っていました。中には白い彼岸花もチラホラ咲いています。また、木の上にもナ・何と彼岸花が咲いているではありませんか。これは勿論、自然現象ではなく人工的に作られたようですが・・・。
雨上がりでしっとりと落ち着いた空気の中、林の間に咲く赤い彼岸花の大群落は、少し離れた所から見ると、白いモヤがかかり幻想的な風景に見えます。
歩を進めてゆくと、雨で水量を増した高麗川の瀬音が、サラサラト気持ちよく聞えてきます。また、彼岸花の香りをかいでみましたが、ほとんど香りがありませんでした。
近くには、木製の橋や、水車と水車小屋があり、ちょっとした田舎風景を感じることができます。
この彼岸花の球根は、当初高麗川の上流から流されて来て自生したもので、その後に人的保護により、このような群生地となったようです。
また、この巾着田の中ほどのエリアには、まだツボミガ多いながらも、全体にピンク色に染まったコスモスの群生地もあります。
白や淡いピンク、濃いピンクなどの色とりどりのコスモスが群生しています。これらの花々は、背丈が1メートルほどで、細い幹からはニンジンの葉のような衣装を着けています。そして風に吹かれてユラユラト頼りなく立つていました。 
この巾着田で見る赤く染まった彼岸花、ピンク色に彩られたコスモスなど、群生した花々が咲き誇るお花畑は、スケールが大きいだけに、やはり見ごたえがありました。